聖書が教える自然観察①(皆野キリスト教会牧師 吉永真)
皆野キリスト教会牧師 吉永真
自然観察で大切な、聖書的な観察法
聖書が教える自然観察について、参照 マタイの福音書5章~7章の山上の説教「野の花や自然に見られる動植物を観察するのに、まず、大切なことは、原罪のある人間の見方を捨て去り、神が導かれるように、礼拝の姿勢で見させていただくことである。一般の人でも、自然をよく観察し、自然保護や保全に携わっておられる方は、自然に対して実に謙虚であられる。私たちは、神を恐れ、神の望まれる自然との共生を、注意深く求めて行かなければならない。自然を神の一部とするガイアの思想、ニューエイジ思想ではなく、どこまでも聖書による違いを明確にしつつ、祈りながら、礼拝として、神の臨在を仰ぎたいと祈る。
そこで、第一に、原罪のある人間は、自分にとって役に立ち、自分にとって得となることだけを求め、きらきらした輝きだけに目を留める、浅薄な見方に陥る。しかし、私たちは、神のみこころである、自然との相互の共生、自然の中に見られる、私たちの罪による影響、破壊を痛みながら、見つめる必要がある。神が私たちを憐れみ、私たちの世界を憐れむように、破壊された自然、傷ついた自然、痛み苦しむ自然を、人間の罪による破壊を意識しながら、慈しむように、見させていただかなければならない。
伝道が、神のみわざのように、今、自然保護とその保全は、自然を通して、キリスト者が率先して原罪のある自分を吟味しながら、神のみわざとして、神の臨在を仰ぐこととして、徹底的に御霊の働きとしての自然観察でなければならない。ですから、自然に対して謙虚という思想ではなく、神の臨在を恐れ、神の望まれる、回復としての救いとして、私たちと自然との同時回復を求める必要がある。
参照 ローマ8章
キリスト者の自然観察は、主が造られた自然に、私たちがどのように生かされているのかを知るものであり、知って、神のみわざとして、自分の救いやきよめ証しとすることである。私は、このように、自然に行くこととは、神の臨在にふれさせていただき、自分の罪を悔い改めることであり、主の創造のみわざと救いを明確にし、霊的にも、心身にも、真に良いみわざに与ることであると考えさせていただいている。
皆野キリスト教会 牧師 ぐんま緑のインタープリター協会員 吉永真
